城郭探訪 真田の里 / 真田本城址 
Club TEANA 2009 ティアナオフ会参加

恒例 Club TEANAオフ会のオマケ余興の城郭探訪ですが、今回は長野県小県郡真田町に寄ってみました。 軍記物でよく取り上げられる「眞田一族」の苗字の由来の地でございます。

真田一族。 表舞台への登場は真田幸隆の代からでしょう。のらりくらりと仕える家を「はしご」し、 最終的に真田家を徳川方と豊臣方に分離させて、一方を明治維新まで持続させる
長期的視点での臨機応変自在型のサバイバル術は凄い。

真田の里

上田市のやや北寄りに位置し、かつて里には真田幸隆がお住まいになられた「眞田氏館」が
存在したそうです。 里の周囲には山城が点在し、真田の里を防御してました。(以下抜粋)

「眞田氏館」のすぐ北には真田本城

その奥に松尾古城

東に天白城

西に米山城

南に殿城山城

北に横尾城

真田の里は850メートルから1200メートル級のこれら山城に囲まれた盆地のようです。 その里を見渡せる位置に一番近い、真田本城(海抜890m)へ寄ってみました。


真田本城
生活目的で築城されてはない事は明らかで、真田の里にかつて存在した真田氏が日々の生活を営んだ真田氏館の詰めの城だと言う事です。 有事の際に引きこもるスペースとして設定されたオプションであり、真田氏館との連携施設ですね。 似たような形態は各地に存在し、例を上げると武田氏の生活の館である、躑躅ヶ崎館に要害山城がオマケで付いてたのと同じ、連装防御システムです。 つまり普段は平地で生活し、やばくなると山に引きこもると言うのが、当時のスタンダードな考え方だったのでしょう。 とは言え、どんな難攻不落(自称)のお城に引きこもったとしても援軍(後詰)なき場合はかなりの高確率で開城か落城しかない事を歴史は証明してくれてます。 城なんて単体ではたいした効果はなく、周辺の味方との連携や様々なプラス要素が絡み合ってはじめて効果を発揮できるシロモノです。 孤立した時点で「ジ、エンド」でございます。

野球チームにずば抜けて素晴らしい投手が一人居たとしても点が取れない打線では負けないまでも永久に勝てないのと同じですね。引き分けも 1回戦までです。トーナメントだと連投にも限界が訪れますので必ず負けます。

真田本城のかつての主の一人である真田昌幸さんが信州上田城在城時に二度程徳川軍の迎撃に成功しておりますが、 孤立無援の籠城戦とは違います。

1回目
一回目は徳川7000の来襲に対して、上杉6500の後詰がありました。

2回目
来襲してきた徳川秀忠軍の主目的は関ヶ原進行であり、上田城攻城はその道すがら立ち寄った余興です。 結果的に手痛い人的打撃と時間的損失を徳川方に与えた訳ですが、本来の城攻めとは分けて考えたいところです。

真田昌幸さん。

真田幸隆さんのお子さま。
昌幸さんのお兄さんである信綱さんと昌輝さんのお二人は所謂、「武田二十四将」に数えられ、各地を転戦した猛将ですが、共に長篠特攻で戦死。 お兄さんお二人がご活躍の時に昌幸さんは養子先におられました。お兄さんお二人が亡くなられた後、 「武田二十四将」に含まれていない昌幸さんが、真田家に出戻って真田宗家の家督を継承されてます。 ちなみに信幸や信繁(幸村)の父でもあります。

こんな感じの豆知識を軽く予習して真田町に立ち寄らさせて頂きました。

当初、真田町周辺部の城址はを全て回るつもりでしたが、今回は時間の関係で不可能と判断。 車で山頂まで確実に行ける真田本城だけの見学です。山頂までティアナで駆け上がって散策しました。

草刈りもされていて、結構開けてます。一番開けた曲輪



土塁 堀切 三段に削平された曲輪のみの遺構ですが、なかなか見ごたえはありました。


多くの城跡に見受けられる模造天守やレプリカ建造物が全くないのでイメージを
損なわれずに大変助かりました。(公衆トイレ除)


御近所の小諸城は城を進むにつれて曲輪が広がる末広がり仕様でしたが、それとは逆に真田本城では広いスペースから先に 進むにつれて(先端に向かって)どんどん狭くなります。



どちらが有利かは知る由はありません。曲輪の左右は急勾配

先端に向かいつつ、左手から見える真田の里(真田町)
右上方向に進めば松代(川中島)方面へ



城内から里を見下ろして「なんとも狭い」と思いました。このわずかな作付面積を取り囲むように配置された諸城群を見渡すと 生産力に対して過剰な程の軍事予算ではなかったのかと思いますね。

箱物建築による景気刺激策だったのかもしれませんが、 いかに支配地経営に高いコストを必要としたのか?等、採算性には疑問を抱かざるを得ません。しかし守り抜こうとする意思を痛切に感じます。 まさに一生賢明であり、その言葉の語源「一所賢明」そのものです。 「生きるか死ぬか」の時代、「採算性」を考える輩が居たとも思えません。私が思うに彼等の最終目標は「DNAの継承」です。

GDPに対し、軍事予算の割合が相当高かったのであろうと容易に推察できますが、21世紀の現在でもそのような国家が実在するのですから 中世の当時としては当たり前だったのかもしれません。その現在の採算性度外視国家も「一所賢明」なのは間違いありませんが、 どんなに優れたシロモノをお持ちでも、孤立してしまえば先に述べさせて頂いた「難攻不落のお城」の末路と同じでございます。

真田の里の先に望む上田市街(上田盆地)



錯角なのですが、真田の里と比較すればかなり広大な平野部に見えてしまいます。真田幸隆さんもこの場所から 「あの広大な平野を手に入れたい」と切に願われた事でしょう。 その想いも武田晴信(信玄)による小県郡攻略戦先鋒として村上勢駆逐の活躍が評価されて達成される次第です。



上田市街の反対方向の景観
真田幸隆、信綱親子が生まれたと伝えられる松尾古城方面



単に「谷」にしか見えませんが、素晴らしい景観です。この谷からスタートし、全国に六文銭の旗印を知らしめ、 明治維新までDNAを守り通した訳ですから改めて真田一門の生きる力強さを感じてしまいました。


2009.6.13

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